山高帽


英国製シルクハット


イタリア製中折型色ソフト

第1項 全般の状況

● 西洋小物商が問屋に移行

 第1章で述べましたように、日本は明治維新によって大きな社会変革を経験することになりました。近代国家として日本が生まれ変わる過程で、政府は国家体制を確立するために軍隊をつくり、国内の安定と発展を目指して政治体制を確立し、交通・通信手段を整備し、また、産業の発達を図りました。

 このような情勢のもとに、帽子は近代国家の体制を整える道筋で必要なものとして、国家が準備したり、また輸入されたりするようになりました。軍帽や官庁の制帽は別として、シルクハットや民間用の帽子の輸入が始まりました。これにかかわった西洋小間物商が、次第に問屋へと変化をしてきました。

 この輸入された帽子や外国人が被っている帽子を見て、見よう見まねでつくり始める人が出てきました。一方問屋では、限られた輸入の帽子以外の取扱商品を増やし、営業を拡大するために、自ら帽子の製造に手を出すか、またはこれらの家内工業的な帽子の製造者を積極的に応援して、初期マニュファクチュア(工場制手工業)へと製造者を変える努力をし、また、製造量を増やすように努力しました。

 また、次第に巨大になっていった紳士のフエルト帽子の輸入額の増大は、国内で帽子をつくるキッカケとなりまして、手工業ではなく工場としての帽子の製造を促しました。

 以上のように、明治時代はわが国の近代化の過程の中で、必然的に帽子が要求されたという他動的な事情で、日本古来の被り物の延長ではなくて、全く新しい習俗として帽子が出てきました。また、次第に官民の間で帽子の需要が高まっていったのと並行し、帽子の製造が始まり、かつ流通が整えられていきました。



帽子のせり売り

明治二十年(1887)頃から約三十年間は、せり売りが盛んに行われた爛熟期です。せり売りとは、今風に言えばオークションのことです。商品を買い手に値段を競争させて売るわけで、それが人気商品ということになりますと、買い手が価格をあれよあれよと思う間もなく吊り上げていきますから、利潤が大きくなるのは当然です。せり市場を立てることで、業者が集まってきますので、買い手を待つ必要も宣伝する必要もなかったわけです。

明治二十年頃、横浜の相生一丁目の河北直蔵が、わが国で初めて帽子のせり売りをしたとの記述がありますが、詳細については不明です。

月日を重ねるごとにせり売りは盛んになっていきましたが、明治三十年頃には「唐物商同業問屋」が主催してせりの定期会を行い、「共成会」「共同会」「交昌会」などは、大正初めまで華々しく活躍しました。

店頭に白地に青色の市松模様を染め抜いた旗を立て、華々しく帽子をせりにかけました。何しろ、帽子は当時の唐物雑貨の中では一番の売り上げで、帽子問屋のせり売りに対する期待も大きなものがありました。

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